2012年09月03日

遠州と山口県を結ぶ線-賀茂百樹をたずねて-

一本の電話をいただいた。

毎年十月三十日に東伊場の縣居(あがたい)神社(賀茂真淵翁を祀る神社)で行われる例祭には、真淵翁ゆかりの方々が訪れる。その電話はそういった方の一人、賀茂家の子孫で家督継承者 賀茂百樹(かも ももき)のお孫さん万代子(までこ)さんからだった。

私たちはこの春、マンガ「賀茂真淵先生」を制作し、多くの方に配布した。浜松市内の小学校、図書館などは勿論、希望する方々、賀茂真淵翁ゆかりの方々には思いつく限り郵送した。
その中から、賀茂百樹のお孫さんにこの本が渡り、お電話をいただいたというわけだ。

電話の主、万代子(までこ)さんは、現在百歳になられるお父様と一緒にお住まいだ。お父様は賀茂百樹の息子さんで、賀茂真杜(かも まもり)さんといわれ、そのお父様がマンガをお読みになり、「大変よい本だから、他の方にも配りたい」とおっしゃり、万代子さんが電話をくださったのである。
真淵翁ゆかりの方から、しかも、賀茂真淵研究者としても高名な方(真杜さんは「賀茂真淵全集」第23巻 縣居書簡他を執筆)からこのようなお褒めの言葉をいただけたことは、私たちにとって無上の光栄であった。

賀茂百樹(1867~1941)は、明治から昭和にかけて靖国神社の宮司(3代目)を30年の長きにわたって(1909~1938)勤めた。そして、意外なことに賀茂百樹は山口県の出身だと万代子さんはおっしゃった。

私たちは大変驚いた。なぜなら、「賀茂真淵先生」を執筆した私も、山口県出身であるからだ。

賀茂百樹とは、どういう方であったのか。
これが、この夏のテーマになった。

私たちは、まずインターネットで情報を集めた。賀茂百樹を検索すると、賀茂百樹が埋葬されている多磨霊園のサイトがまず最初にヒットする。大変よく調べてあって、ここで多くの情報を得た。(注4)

歴史が眠る多磨霊園 賀茂百樹
http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kamo_mo.html

これによると、賀茂百樹の出身は山口県熊毛郡(やまぐちけん くまげぐん)の白井田八幡宮(しらいたはちまんぐう)だそうだ。そして、高松八幡宮に勤めたこともあるらしい。夏休みには、まずこの二つの神社を訪ねることに決めた。

山口県熊毛郡は私の実家からはそう遠くではない。

山口県から遠州に嫁いできた私が、「賀茂真淵先生」を描くことになったのも、いかなる偶然かと、執筆の最中何度も思ったものであるが、賀茂真淵翁のゆかりの方が、実家の比較的近くにおられたとは!
日本全国の中でも山口県、そして、広い山口県の中でも、私の実家の近くであるとは…不思議なことがあるものだ…というのが私の実感であった。

8月、実家に帰省すると、すぐに私たちは高松八幡宮(熊毛郡田布施町)を訪れた。



しかし、宮司さんは折悪しくお留守であった。賀茂百樹がここにいたことがあるかどうかは、よくわからなかった。しかし、八幡宮の境内の端に石碑が建っており、「藤井稜威」(ふじい いつ)の署名があった。



藤井稜威は、賀茂百樹の実の兄の名前である。
やはり、高松八幡宮は、賀茂百樹と関わりがあるのだろうか…?(注1)

私たちは次の目標、白井田八幡宮にいよいよ向かうことになった。

高松八幡宮のあった田布施(たぶせ)から、まず海辺の町柳井(やない)に車で移動し、半島に向かう細い道に入る。

白井田は、室積半島(むろづみはんとう)の突端の上関町(かみのせきちょう)長島にある地名だ。私の実家からでも、上関はいささか遠い印象がある。車で1時間くらいかかるのであろうか。半島の先にあるこの土地には、用事もなく、殆ど行ったことがなかった。

http://goo.gl/maps/NS1h7

そもそも柳井の町も、いかにも田舎である。江戸時代に商業で栄えたとは聞くが、主要な街道からははずれており、駅に下りる人もまばらな、瀬戸内海に面した小さな町であった。
そのような田舎の町から、更に海に向かうのである。白井田とは、本当に何もない土地なのではないか。そういう土地に生まれた賀茂百樹が、どうして靖国神社の宮司を勤めるまでになったのか。その謎ももうすぐわかるのであろうか…?

海を見ながら半島をどんどん下り、上関の更に先にある長島に渡る橋までやってくると、急に視界がひらけて、忽然と町が現れ、私たちは驚かされた。
橋のこちら側も、また橋から眺めた長島側も、海沿いの道はびっしりと民家で埋められていた。いかにも古い、風雨にさらされた町並みではあるが、独特の風情がある。交通の便が悪い半島に、どうしてこのような海上の都市が突如として出現したのか、狐につままれたような気分であった。明らかに私たちがやってきた柳井や田布施、大畠などから見ても戸数も多く、活気もある。

その町を後ろにして、更に車は島の奥に向かう。地図を見ながら上盛山(かみさかりやま)の斜面を巻いて走る。地元の人しか通らない細い山道は、舗装はしてあるけれども対向車と行き交うだけの道幅はない。
幸いにも対向車は現れず、島の反対側に出た。目の前に瀬戸内の豊かな風景がひらけた。




道は下りにさしかかり、集落に入るすぐ手前に、神社の鳥居があった。車から降りてみると、その鳥居が白井田八幡宮のそれであった。



神社の急な石段は折れ曲がりながら長々と続き、息の切れてきたころ、やっと境内に到着した。広々とした境内は、舗装がされておらず、岩肌が露出している。この神社は巨大な磐の上に鎮座しているのであろうか。不思議な迫力がある。



お参りを済ませて、ここまで来させていただいたことに感謝し、私たちは神社の横にある細い道を下りることにした。



神社の山に沿った石段を里に下りていくと、右手にいわくありげな家がある。玄関から声をかけると、品の良い年配の婦人が出てこられた。はたして白井田八幡宮の宮司、藤井典子さんであった。突然訪ねた私たちを温かく迎えてくださり、「神様って、本当にいらっしゃいますのよ。」と、ご自身の不思議な経験、ご主人のこと、藤井の家のことなど、お話しくださった。
非常に美しい言葉遣いをされる方で、優しいお人柄がにじみ出ていて、深く印象に残った。



宮司であったご主人を亡くされて、今はご自身が宮司を勤めていらっしゃるので、あまり詳しいことはわからないとおっしゃりながら、玄関の間に掛けてある絵が賀茂百樹の描いたものだと教えていただいた。

また、神社の拝殿にも、賀茂百樹の書がかけてあるとおっしゃるので、拝殿に戻って改めて見せていただいた。



「奉祝 高松八幡宮正殿拝殿(注2) 御再建竣成詠歌一首 并 短歌」
「昭和四年十月 靖国神社宮司賀茂縣主百樹詠 并 書」

この「賀茂縣主百樹」(かもあがたぬし ももき)の署名をこの目で見て、遠州からはるばる山口県に来た甲斐があったと、私たちはしみじみ実感したのであった。

白井田八幡宮を後にしながら、再び上関の町を車窓から眺めて、この地は、私が思っているより昔はずっと都会であったのかもしれないと、やっと思い至った。



瀬戸内海は古くから沢山の舟が行き交い、交易も盛んであった。海外の珍しい文物も、みなこの瀬戸内を通って近畿や関東に伝えられた。下関は今でも大きな都市であるが、この上関は下関や中関とともに、海の関所であったそうだ。
そして昔、通行する舟はみな、一旦この上関にとどまり、波や風を待って船出したというのだ。

昔なら、街道を行くより舟の方がずっと早い。現在は鉄道や高速道路が通らない土地はいかにも不便で、人も少なくなっていくのだが、昔はむしろこの土地の方が、遠方の情報も多く集まり、教養も深い人々が多かったに違いない。

白井田八幡宮は、そうした土地の非常に重要な神社だったのではないだろうか。賀茂百樹の兄藤井稜威(ふじい いつ)は、高名な国学者であり、広島に國學院を創設したと、宮司さんはおっしゃった。そして、弟の百樹は、そこで学び、東京にも行き、賀茂家の跡継ぎとして見いだされ、養子に入ったのである。非常に優秀な兄弟であったし、そうした人物を出す立派な家系であったのだろう。

ところで、実は遠州と山口県には、意外と深い縁がある。

この賀茂百樹が靖国神社の三代目の宮司であるとは最初に書いたが、その先代の宮司は遠州の人、しか同じ賀茂姓の賀茂水穂(かも みずほ)という人であった。(注3)

靖国神社の巨大な青銅の鳥居をくぐると、境内に大村益次郎の大きな銅像があるが、これを建立したのは誰あろう賀茂水穂である。今でも台座にその名がしっかりと刻まれている。

大村益次郎銅像




賀茂水穂は遠江国浜名郡(雄踏町宇布見)出身で、金山大明神の神主であった。時は幕末、明治維新の前夜である。徳川にゆかりの深い浜松にありながら、勤皇の意志堅固な神主達が集まり、東征大総督 有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の率いる官軍に合流して、戊辰戦争などを共に戦った史実がある。

この人々を遠州報国隊という。
賀茂水穂はこの遠州報国隊の一員であった。そして、水穂の兄 山本金木(やまもと かなぎ)が報国隊の隊長であった。

遠州は、これより遡る南北朝時代、後醍醐天皇の皇子宗良親王(むねながしんのう)が遠州灘に上陸され、土地の豪族がこの皇子をお守りし、よく戦った経緯がある。

この宗良親王をお守りした豪族が井伊家であり、親王をお祀りしているのが、今の井伊谷宮(いいのやぐう)である。(注4)

そして、伊勢国から陸奥国へ舟で渡ろうとされた宗良親王が漂着された遠州白羽の浜には、今では石碑が建っている。(注5)



親王は、遠州、駿河、三河、信濃で活躍され、生涯を閉じられたが、伝説は今も語り継がれ、遠州国学の流れとして受け継がれている。

こうした歴史的背景を背負って遠州報国隊となった神主たちは、明治維新の成った後、徳川家の所領となった遠州には帰参がかなわず、靖国神社の神主となったり、官吏になるなどして多数が江戸にとどまった。

賀茂水穂は、明治政府の初期の海軍で大主計を勤めた後、靖国神社の宮司となった。そして、賀茂真淵翁に造詣が深く、また靖国神社宮司である自らの跡継ぎとして、俊英賀茂百樹を見いだしたのではなかろうか。

 賀茂水穂の歌が残っている。

縣居大人墓前繼嗣報告祭の直會席(明治二十九年五月九日)に於て、水穗翁の哥一首あり。曰く、「眞木柱 動かぬ心 押立て 家のまなびを 引おこせ君」(注6)

 この「君」とは、賀茂百樹のことであろう。明治29年、賀茂百樹が賀茂家の養子になった(注4)2年後のことである。
賀茂真淵翁の歌「飛騨たくみ ほめてつくれる 真木柱(まきばしら) たてし心は 動かざらまし」を踏まえているのは言うまでもない。

賀茂百樹は後に「賀茂真淵全集」「日本語源」などをものし、靖国神社の宮司も30年勤め上げ、水穂の期待によくこたえたのである。

 一本の電話が、私たちを不思議な旅へと誘った。浜松から山口県への地上の旅であり、宗良親王、賀茂真淵翁から賀茂水穂、賀茂百樹へと連なる時間の旅でもあった。
過去から現在へと綯われた必然という縄の、たった一本の藁を探し当てた、貴重な夏であった。



注1  後日、熊毛郡田布施町の高松八幡宮の金長宮司さんと電話でお話しした。賀茂百樹は高松八幡宮に勤めたことはなく、境内にあった藤井稜威の石碑は、当時の神社界の重鎮が書かれたというほどの意味であるということだ。
 
注2  白井田八幡宮にあった賀茂百樹の書「高松八幡宮正殿拝殿 御再建竣成詠歌」の高松八幡宮は、白井田八幡宮の以前の名前である。昔は八幡宮には土地の名前はついておらず、ただ「八幡宮」と呼ばれていたそうである。いつのころか「高松八幡宮」となり、「白井田八幡宮」となっていったようだ。私たちは、現在熊毛郡田布施町にある高松八幡宮とこれを混同していたのだ。

注3  明治5年に明治天皇の思し召しにより創建された官弊中社である。賀茂真淵翁の本家、賀茂神社宮司の岡部家が井伊谷宮の宮司も勤めている。

注4  賀茂水穂は、賀茂家の末裔であるという文献もあるが、小山正著「賀茂真淵傳」や、賀茂真杜氏のお話では、真淵翁の家系には属さないとのことである。賀茂百樹は、直接賀茂水穂の養子になったのではなく、岡部家(賀茂真淵翁の本家)の岡部喜代子と養子縁組し、本家の祭祀を継承することになったとの記述がある。(賀茂姓は、百樹以後、名乗られるようになる。冒頭で紹介した多磨霊園のHPは、一部間違いがあると思われる)岡部家、賀茂家の系譜については、今後も更に調査したい。

注5  浜松市南区白羽町 馬込川沿いにある石碑。白羽橋から200mほど河口寄り左岸に、後醍醐天皇の皇子、宗良親王上陸地の顕彰碑がある。

注6  「加茂百樹大人履歴の概要」(吉村清享氏編『春祝――賀茂百樹大人還暦祝詞集』昭和四年一月・愛知縣海部郡津島刊に所收)


参考文献
「明治維新 静岡県勤皇義団事歴」静岡県神社庁
 

               平成24年9月   江川直美記す
  

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2012年04月19日

県居小学校贈呈式と和歌の朗誦

4月13日の贈呈式の模様と県居小学校独自の和歌の朗誦をyoutubeにアップしました!
是非ご覧ください!

贈呈式の様子


和歌の朗誦




県居小学校について

今回贈呈式を行っていただいた浜松市立県居(あがたい)小学校は、賀茂真淵が
生まれた中区東伊場にあります。

真淵の生き方や教えを建学の精神としており、和歌を教育に取り入れています。

真淵は歌人としても素晴らしく、多くの和歌を詠んでいますが、その中から選ん
だ歌を毎朝全校児童で朗誦しています。(2ヶ月で一首ずつ、1年で六首)

発声の練習なども積み、体全体から声を出して朗誦するので、体育館全体に声が響くほどの迫力です。

県居小学校の子どもたちは、日常的にも自分たちで和歌を詠みます。

全校のみんなの前で披露したり、子どもたちがつくった和歌を百人一首にして全校でカルタ大会をし
たりして楽しんでいます。和歌のコンクールにも積極的に応募し、毎年多くの入賞者を出しています。

また、Eテレで23年12月に放送された学校対抗の長縄飛びでも、全国一位になり
ました。これには裏話があります。

この番組は、1分間に長縄8の字跳びで延べ何人跳んだかを競い合う競技です。本番当日、県居小学校の児童は、何度やっても縄がひっかかりミスが続いていました。

その時、先生が全員を集めて、一緒に真淵の和歌を朗誦したそうです。いつもの
ように大きな声を合わせて朗誦していくうちに、仲間との一体感を思い出し、気
持ちも落ち着いて、普段通りミスなく跳べ、全国一位になったのです。

このように、全員の一体感、精神統一、全身での発声、美しい言葉に触れることなど、
和歌の朗誦から得られる教育効果は計り知れないものがあります。
  

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2012年04月19日

浜松市制作の賀茂真淵翁 紹介ビデオ

昭和60年 浜松市広報課制作の映像「偉人賀茂真淵翁-その生涯とゆかりの地-」



昭和60年当時の浜松市の様子なども出てきて、懐かしい映像です。  

Posted by マンガで読む賀茂真淵 at 20:19 │Comments(0)賀茂真淵について